京都旅行寺めぐり |
京都 | |
| 旅行 | ||
| 醍醐寺 | ||
| 醍醐寺 (地図) 京都市伏見区醍醐伽藍町 |
醍醐寺・弁天堂 |
京都めぐり、醍醐寺を旅行。醍醐寺(だいごじ)は、真言宗醍醐寺派総本山にして、当山派(とうざんは)修験道の根本道場である。標高454メートルの醍醐山全山を寺域とし、約300平方メートルの広大な敷地を占める。伽藍は山上と山下とに大きく二分され、山上を上醍醐(かみだいご)、山下を下醍醐(しもだいご)と呼ぶ。 |
| 修験道の一大中心らしく、山内は森厳な雰囲気に満ちているが、豊臣秀吉の「醍醐の花見」でも知られるように桜の名所でもあり、その季節ばかりは華やいだ気分に包まれる。西国三十三所第十一番札所でもある。 貞観16(874)、空海の法孫にあたる聖宝(しょうぼう)が、醍醐山上に庵を結んで、准胝(じゅてい)観音、如意輪(にょいりん)観音の像を刻み堂宇に安置したのが、開創であるという。延喜7年(907)には、聖宝に帰依した醍醐天皇の勅願寺となり、醍醐寺と名付けられるとともに、薬師堂、五大堂が建立されて、上醍醐の基礎ができる。聖宝没後、門弟の観賢(かんげん)は、同11年(911)に上醍醐に御影堂を建て、同19年(919)には、醍醐寺の伽藍整備にも取り組む。 院政期には、歴代の座主の業績によって、真言宗密教小野流の中心的地位を占めるにいたる。また、永久3年(115)に15代勝覚(しょうがく)が子院・三宝院(さんぽういん)を建立したのに続いて、金剛王院(こんごうおういん)、理性院(りしょういん)、無量寿院(むりょうじゅいん)、報恩院(ほうおういん)が建てられ、醍醐五門跡と称した。以来、多くの学僧が入山し、いよいよ大寺として隆盛する。 南北朝期には政争に巻き込まれたものの、73台座主・満済(まんざい)のとき、足利氏の外護を得て寺勢は再び伸張した。しかし、応仁の乱で兵火にかかり、幸い五重塔は焼失を免れたものの、下醍醐の伽藍は総てを失い、急速に衰退衰退、しだいに上醍醐も荒廃してゆく。 桃山時代にいたり、80代座主義演(ぎえん)のとき、秀吉の援助を得、三宝院の再興を手始めに、伽藍は復興に向かう。慶長3年(1598)には、有名な「醍醐の花見」が催された。 |
京都めぐり、
秀吉はその以前から醍醐寺に花見に来ていたが、このときは規模が違った。境内に700本あまりの桜を植え、道を整え、8つの茶屋をこしらえ、今で言う模擬店のような露店を並べ、醍醐寺全部が秀吉の遊び場となったのである。ちなみに秀吉この年の秋に没しており、「醍醐の花見」が生涯最後の花見となった。世界文化遺産登録。 |
五重塔と桜 |
五重塔 |
京都めぐり、五重塔を旅行。基壇上に立つ、三間四方、本瓦葺の安定感、重量感にあふれる塔(国宝)。塔の長さの約半分を占める長大な相輪をのせている。天暦5年(951)醍醐天皇の冥福を祈るため、朱雀天皇が建立。京都府下最古の建造物。内部は、鮮やかな密教絵画が施されているが、非公開。 |
京都めぐり、金堂を旅行。金堂(こんどう)は、主要部に平安末期の様式を残す(国宝)。入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の大堂。慶長3年(1598)、秀吉により、紀州湯浅の満願寺から移築された。 |
金堂 |
清竜宮 |
京都めぐり、清竜宮拝殿を旅行。清竜宮(せいりゅうぐう)は醍醐寺鎮守杜の拝殿(国宝)。上醍醐にある。永享6年(1414)再建。檜皮葺、懸造(かけづくり) |
京都めぐり、
下醍醐の桜並木の北にある三宝院(さんぽういん)は、もとは醍醐寺の中心子院であった。応仁の乱で焼失したが、慶長3年(1598)、秀吉の援助により再興。 |
表書院 |
庭園 |
京都めぐり、
「醍醐の花見」に際して秀吉の命で築庭(名勝)。名石「藤戸石」は聚落第(じゅらくだい)より運ばれたもの。 |
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