京都旅行寺めぐり |
京都 | |
| 旅行 | ||
| 大覚寺 | ||
| 大覚寺 (地図) 京都市右京区嵯峨大沢町4 |
大覚寺 |
京都めぐり、大覚寺を旅行。大覚寺は、その風光美とともに、南朝最後の御所として、また生け花発祥の地としても知られる京都の名刹。北嵯峨の山際に、回廊で結ばれた殿舎がゆったりと甍を並べ、横手には大沢池(おおさわのいけ)が広々と水をたたえて、王朝文化の香りをいまに伝えている。 |
| 貞観18年(876)、淳和(じゅんな)天皇皇后の正子内親王が、父・嵯峨(さが)天皇の離宮嵯峨院を寺に改めたのが、大覚寺の創建である。10世紀後半からしばらく衰退するが、鎌倉中期の文永5年(1168)、後嵯峨天皇が落飾して大覚寺に入る。続いて亀山、後宇多(ごうた)の2法皇も入り、本格的な再興がなされる。 とくに後宇多上皇は、真言宗の小野・広沢両流を受け継ぎ、その法流を伝えるとともに、金堂の造営をはじめとして伽藍(がらん)整備にも尽力し、大覚寺中高の祖とされる。後宇多上皇は、また、延慶元年(1308)に寺内に仙洞御所を設けて院政を行い、以来、大覚寺は「嵯峨御所」と呼ばれるようになった。 この亀山天皇、後宇多天皇の皇統は、上皇や皇子があいついで大覚寺に入住したため、大覚寺統という。この大覚寺統が、南朝として、北朝と対立した時代が、南北朝時代である。それは約50年の間続くが、ついに明徳3年(元中9、1392)大覚寺内における講和会議によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に神器を譲るという形で、終止符が打たれた。 その後、応仁の乱の兵火により大覚寺は一時荒廃するが、安土・桃山時代にいたり、信長、秀吉らの寺領寄進によって復興。江戸時代には家康に寺領を認めるとともに、後水尾天皇からの寄進もあって、門跡寺院として隆盛に向かい、延宝年間(1673〜81)には、ほぼ現在の寺観の基礎が整った。幕末から明治の初めにかけて、一時無住となるが、明治6年に住職となった神海が復興に努め、現在にいたる。 京都めぐり、生け花発祥を旅行。生け花発祥の地とされる大覚寺は、嵯峨天皇流華道の宗家でもある。その祖は嵯峨天皇とされる。寺伝によれば、天皇が大沢池で舟遊びをしているときに小島に咲く花を1輪折って、御殿の花瓶に挿したところ、その姿が「天、地、人」をあらわすものであったという。嵯峨御流が一般に広まったのは江戸末期以降。 なお、塔頭の覚勝院(かくしょういん)では湯豆腐を賞味できる。 |
京都めぐり、宸殿を旅行。宸殿(しんでん)は、後水尾天皇が中宮、東福門院の旧殿を移築した寝殿造風の建物(じゅうぶん)。前庭には左近の梅、右近の橘を配し、内部は牡丹の間、紅梅の間、柳松の間、鶴の間に分かれる。狩野山楽(かのうさんらく)筆といわれる、金碧に極彩色で描いた豪華な襖絵「牡丹図」「紅梅図」などは、ほかの多くの寺宝類とともに宝物館に展示されている。 |
牡丹の間 |
正寝殿 |
京都めぐり、正寝殿を旅行。正寝殿(しょうしんでん)は、客殿ともいう(重文)。桃山時代の書院造。11室の小室は狩野元信(もとのぶ)・永徳(えいとく)・探幽(たんゆう)や、尾形光琳(おがたこうりん)・渡辺始輿(わたなべしこう)筆の障壁画で飾られており、なかでも、鞘の間の紙障子の下板に描かれた「薄と兎」は、諧謔(かいぎゃく)に富んだ構図の妙で知られている。 |
京都めぐり、玄関式台を旅行。正寝殿の正面玄関。華道の寺らしく、豪華な生け花が迎える。三方の壁には金碧画「松二山鳥画」が描かれている。 |
大玄関(おおげんかん) |
大沢池(おおさわのいけ) |
京都めぐり、大沢池を旅行。平安前期の池泉回遊庭園の面影をとどめる。嵯峨天皇離宮当時の遺構。嵯峨天皇が、中国の洞庭(どうてい)湖に模して作らせたもので、「庭湖(ていこ)」とも呼ばれる。池中に浮かぶ天神島、菊ケ島、庭湖石は、華道の基本である天地人の調和を示すという。春には茶席舟が、秋には観月舟が浮かべられて、舟遊びを楽しんだ嵯峨天皇の時代をしのばせる。 |
京都めぐり、楽しい旅行を楽天トラベルがアシスト。国内宿泊 |
Copyright(C) 2007 京都旅行寺めぐり All Rights Reserved.