京都旅行寺めぐり |
京都 | |
| 旅行 | ||
| 妙心寺 | ||
| 妙心寺 (地図) 京都市右京区花園妙心寺町 |
妙心寺 |
京都めぐり、妙心寺を旅行。妙心寺は、双(ならび)ヶ岡を西に望む花園のほぼ中央にある大禅刹。広大な境内には、勅使門、三門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線上に並ぶ、その横に経蔵、鐘楼などの諸堂が、そしてそれらを囲むように多くの塔頭(たっちゅう)が建つ。これは近世禅宗寺院の伽藍配置の典型であり、それらをほぼ完備した姿は大徳寺とともに貴重である。 |
| 南北朝時代の初頭、花園上皇がこの地にあった離宮を禅寺に改め、開山として開山慧玄(かいざんえげん)を招いたのが、妙心寺の起こりという。 上皇は山内に玉鳳院(ぎょくほういん・現在も塔頭として残る)を開き、自身の住まいとする。以後、妙心寺は禅寺として興隆がはかられたが、応永の乱(1399)で、開創わずか60年ほどにして廃絶の憂き目にあう。当時の住職と、幕府と対立していた大内義弘(おおうちよしひろ)との間に交流があったことが、足利義満の逆鱗に触れ、寺領、寺産はすべて没収。一時は寺名も変えられてしまう。 しかし、妙心寺は30余年後には復興がはかられ、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)によって、細川持之(ほそかわもちゆき)の支援のもとに中興される。その後も持之の子・勝元の援助を受けて、寺は隆盛に向かうものの、応仁の乱の兵火によって焼亡。しかしこのときは、ほどなく勝元、政元(まさもと)親子の援助を受け、また後土御門(ごつちみかど)天皇の勅旨も得て再興する。永正年間(1504〜21)には、大徳寺の未寺的な位置づけから脱して、名実ともに独立した禅寺となっている。 その後、衰退する五山禅をしり目に、臨済禅の主流として伸長した妙心寺。慶長19年(1614)の方広寺仏殿の鐘銘事件で、150世海山元珠が豊臣氏を弁護したため、家康の怒りをかい、江戸初期には苦難も経験するが、寺勢は衰えることなく、有力諸大名の外護を受けるなどしてますます隆盛した。 現在も、妙心寺の本坊の建物のほとんどは江戸期のもので、主要建物はすべて重文の指定を受けている。山内塔頭は、現在47を数えるが、退蔵(たいぞう)院、桂春(けいしゅん)院、大心(だいしん)院以外は非公開である。なお、東林院は樹齢300年の沙羅双樹でよく知られている。 |
京都めぐり、三門を旅行。慶長4年(1599)造営(重文)。入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)、重層の堂々たる楼門。楼上には観音菩薩像や十六羅漢を安置する。毎年6月18日(三門懺法の日 )のみ特別開扉される。 |
三門 |
仏殿 |
京都めぐり、仏殿を旅行。入母屋造、本瓦葺、裳階付き単層(重文)。文政年間(1818〜29)の建立。内部には本尊の釈迦如来坐像、迦葉(かしょう)阿難(あなん)の像を安置。 |
京都めぐり、法堂を旅行。ほぼ仏殿同様の造りだが、ひとまわり大きく、建立も明暦3年(1657)と古く、より禅宗様(唐様)に徹している(重文)。内陣の鏡天井の「雲竜(八方にらみの龍)の図」は、狩野探幽(かのうたんゆう)作。この法堂と仏殿とが並び立つ様は、まさに大禅刹にふさわしい威容である。 |
雲竜の図 |
大方丈 |
京都めぐり、大方丈を旅行。大方丈(おおほうじょう)は、承応3年(1654)再建(重文)。入母屋造、桧皮葺の大建築で、法堂と渡廊下で結ばれている。阿弥陀三尊を安置。 |
京都めぐり、小方丈を旅行。小方丈(こほうじょう)は、南緑の杉戸に麒麟が描かれており、麟徳殿(りんとくでん)ともいう。造営は大方丈よりかなり古いとされる。 |
小方丈 |
黄鐘調の鐘 |
京都めぐり、
黄鐘調(おうじきちょう)の鐘は、日本最古の銘(698)のある鐘。その音が雅楽十二律の黄鐘にあたるところから、黄鐘調の鐘と呼ぶ。現在は、妙心寺の法堂東北隅に保存される。 |
京都めぐり、東林寺を旅行。東林院(とうりんいん)の樹齢300年の沙羅双樹(さらそうじゅ)は、冬に白い椿のような花を咲かせ、雨にうたれてすぐに散ってしまうはかなさが、ひときわ心をうつ。 |
沙羅双樹 |
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