京都旅行寺めぐり |
京都 | |
| 旅行 | ||
| 南禅寺 | ||
| 南禅寺 (地図) 京都市左京区南禅寺福地町86 |
京都めぐり、南禅寺を旅行。![]() 南禅寺 ![]() 法堂(はっとう) |
南禅寺は京都は岡崎公園の東に位置する臨済宗南禅寺派の総本山。勅使門、三門、法堂、方丈が一直線に立ち並び、その周りには多くの塔頭が建つ。南禅寺の創建は鎌倉時代で、創健者は亀山天皇である。もともと、この地は亀山天皇が文永元年(1264)に造営した離宮があった。ところが周辺に妖怪が出没し、これを禅僧が退治したことがきっかけとなって、天皇は禅宗に帰依するようになったという。正応2年(1289)、すでに上皇となっていた亀山天皇は出家し、ほどなく離宮を禅寺に改めた。南禅寺は、はじめ竜安山禅林禅寺と号したが、主要な伽藍がほぼ完成した正安年間(1299〜1301)に現在の名称となる。鎌倉時代末から室町時代前半にかけて南禅寺は黄金時代をむかえる。当初から皇室との関係により寺格が高かったが、足利義満は南禅寺に「五山之上」(ござんのうえ)という五山制度の最高の地位を与え、禅宗寺院の頂点に位置づけた。 |
| 南禅寺の歴代の住職には一山一寧(いちさんいちねい)、夢窓疎石(むそうそせき)らの名僧が選ばれ、塔頭の数も60余にのぼったという。宗教活動以外でも、中世の禅僧の間でさかんになった漢文学、いわゆる「五山文学」の中心となる。しかし室町時代後期には応仁の乱や他宗僧徒の焼き討ちで火災に見舞われ、建物をすべて失った。さらに各地の守護が寺領を奪ったため著しく衰える。 しかし戦国時代が終わり豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられると南禅寺にも復興の機運が高まる。その理由は、南禅寺の僧が豊臣家・徳川家に用いられ、政権との結びつきが強くなったためである。とくに以心崇伝(いしんすうでん)は徳川家康に重用されたことで有名である。崇伝は幕府の宗教対策担当といべき地位につき、キリシタン追放、寺院諸法の制度なに関わった。また、方広寺大仏殿の鐘銘に家康を呪詛(じゅそ)する言葉が隠されているとして豊臣家へ抗議し、家康の政権争いにも力を貸した。このような崇伝の活動に対して、他宗派や朝廷からは批判の声が少なくなかったが、幕府にとっては頼りになる知恵袋であったといえる。この時代に建物の再建が進められ、現在の南禅寺の形がほぼできあがった。 明治維新では神仏分離の風潮の中で、南禅寺境内の縮小などかなりの打撃を受けている。山内に残るあかレンガの水路閣もその一つで、明治政府は琵琶湖の水を京都に引くために寺にそぐわない洋風建築を強行したのである。もっとも現在の水路閣は色あせ、周囲の緑となじんで、京都の風景にさほど違和感を与えない。 |
京都めぐり、三門を旅行。寛永5年(1628)、藤堂高虎(とうどうたかとら)が大阪夏の陣の戦没者慰霊のために寄進(重文)。桜上からの京都の見晴らしが良いことで有名である。歌舞伎「桜門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と見得を切るときの舞台になっているが、実際には石川五右衛門が生きていた時代の京都にはなかった。 |
![]() |
![]() 南禅寺の大方丈 |
京都めぐり、大方丈を旅行。豊臣秀吉が京都御所に寄進した清涼殿をここに移築したもの。襖絵は狩野元信・永徳(かのうもとのぶ・えいとくの傑作。) |
京都めぐり、小方丈を旅行。大方丈に接続され、桃山城の小書院を移築したもの。虎の間にある襖絵は狩野探幽(かのうたんゆう)作といわれ、竹林群虎が描かれている。「水呑み虎」の図はとくに有名。 |
![]() 水呑み虎 |
|
![]() 南禅寺の方丈庭園 |
京都めぐり、方丈庭園を旅行。大方丈の広縁に面する。(名勝)巨石の姿から「虎の子渡し」と呼ばれ、江戸時代初期の禅院式枯山水の代表的な庭園。樹木と石組みを一箇所にまとめ、広い余白が枯淡な空間を作り出し、京都らしい風景を作りだしている。小堀遠州の作庭と伝えられる。 |
京都めぐり、楽しい旅行を楽天トラベルがアシスト。国内宿泊 |
Copyright(C) 2007 京都旅行寺めぐり All Rights Reserved.