京都旅行寺めぐり |
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| 二条城 | ||
| 二条城 (地図) 京都市中京区二条城町 |
二条城・東大手門 |
京都めぐり、二条城を旅行。二条城が築かれたのは、慶長7〜8年(1602〜3)頃。関が原の戦いに勝利をおさめた徳川家康が京都での居城として、また京都御所の護衛を目的として築いた。しかし、二条城の役割はそれだけではなかった。その時代はまだ豊臣一族が大阪城に残っており、京都から彼らの動向を探る必要もあったのである。 |
| 慶長10年(1605)、家康は秀忠に将軍を引き継ぐ際、秀吉の遺児・秀頼に二条城にあいさつに来るように求めたが、秀頼の母である淀君が断固反対した。豊臣家は徳川家の家臣ではないから徳川家が大阪まで来るべき、というのがその理由である。家康はいったんあきらめたが、慶長16年(1611)に再び秀頼に上京をうながした。このときは大名たちの説得により、淀君も拒否することができなかったが。初めての会見で、家康は秀頼の成長ぶりに目を見張った。関が原の戦いのときには幼児だった秀頼も、すでに立派な青年に成長していたのである。以来、家康は豊臣家に対する警戒心を強めたという。 そしてその3年後、家康は二条城から大阪城に向かって出陣した。家康の時代の二条城は現在の二の丸の部分が中心であったが、3代将軍家光の時代に後水尾天皇を迎えるために大規模な拡張工事が行われている。工事は寛永元年(1624)から寛永3年(1616)にわたり、現在の本丸の部分や天守などを築いた。二の丸の御殿にも修築を加え、現在の二条城の形ができあがった。 しかし幕末になると京都は政治闘争の場となり、文久3年(1863)には家茂が上洛。将軍が二条城に入るのは実に229年ぶりであった。家茂は公武合体に努力するが、世の中の流れを変えることはできないままに夭折(ようせつ)。 慶応3年(1867)最後の将軍慶喜(よしのぶ)は二条城で大政奉還の儀式を行い、徳川の世は幕を閉じた。世界文化遺産登録。 |
京都めぐり、唐門を旅行。二の丸御殿の正門(重文)。雄大な規模と彫刻や飾金物で埋め尽くされた豪華な装飾が桃山時代らしい雰囲気を伝える。![]() |
唐門 |
二の丸御殿 |
京都めぐり、二の丸御殿を旅行。二の丸御殿は、二条城の中心的な建物で、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄(そてつ)之間、黒書院、白書院の6棟が配列された大書院形式の壮大な建築。 |
京都めぐり、遠侍を旅行。遠侍(とおざむらい)は、二条城の中でも最大規模の建物。大名や客人の控え所と警備の詰所にあてた。正面の車寄(くるまよせ)は御殿の玄関で、豪華な装飾が見る者に威圧感を与える。 |
遠侍の間 |
大広間一の間 |
京都めぐり、式台を旅行。式台は、老中と大名が対面したところ。三の間の雪中柳鷺(せっちゅうりゅうろ)図は二の丸御殿の障壁画の中でも優れた作品の一つ。 |
京都めぐり、大広間を旅行。大広間は、将軍と大名の対面所。将軍の座る上段の間は城内の中心ともいうべき部屋で、室内の装飾も豪華を極める。四の間の松鷹(まつたか)図が有名。 |
大広間四の間 |
黒書院 |
京都めぐり、黒書院を旅行。黒書院は、将軍が私的な対面や政務を行ったところ。大広間と同じ書院だが規模が小さいため、小広間とも呼ばれる。 |
京都めぐり、白書院を旅行。白書院は、御座の間とも呼ばれ、将軍が休憩や寝室に用いた。室内装飾も落ち着いた意匠でまとめられている。 |
白書院 |
二の丸庭園 |
京都めぐり、二の丸庭園を旅行。二条城の二の丸庭園は、寛永の大拡張の際に小堀遠州が作庭したと伝えられる(特別名勝)。力強い石組みが特色。 |
京都めぐり、本丸御殿を旅行。本丸御殿は、明治26年に京都御所から桂宮(かつらのみや)御殿を移築したもの。瀟酒なたたずまいの公家風御殿である。(重文) |
本丸御殿 |
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