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もみじライン 龍安寺
龍安寺  (地図) 京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
龍安寺
龍安寺

 京都めぐり、龍安寺を旅行。

龍安寺は、石庭が有名な名刹。油土塀でかっきりと切り取られた75坪ほどの長方形の空間に、一木一草たりとも用いることなく、白い砂利に5組15個の石だけを配するそれは、枯山水の極致を示すものといわれ、周囲の豊かな緑のなかにあって、まったく異質の世界を現出する。
衣笠山の麓、風光明媚なこの地には、もともと徳大寺家の山荘があった。宝徳2年(1450)、細川勝元(ほそかわかつもと)がそれを譲り受け、一寺を設けて妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いたのが、龍安寺の創建である。もっとも、玄承は、師・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)をもって開山とし、自らは二世となった。創健者の細川勝元は、まだ20歳の若者であった。
 足利一門の名門家を13歳で継いだ勝元は、16歳にして幕府の最高職である管領(かんれい)に就任した。以来、8代将軍義政の補佐役として活躍。文化教養のも関心が深く、その点で芸術家肌の義政に気に入られていた。
 応仁元年(1467)に起こった応仁の乱では、勝元は東軍を率い、山名持豊(やまなもちとよ)の西軍と対立。この戦いで勝元の建てた寺が狙われないはずもなく、龍安寺は兵火を浴びて全焼してしまった。
文明5年(1473)両軍の大将が急死すると戦乱は収まり、都は復興へと向かう。龍安寺も長享2年(1488)に、勝元の子・政元(まさもと)により復興された。
 住職は龍安寺・中興の祖とされる特芳禅傑(とくほうぜんけつ)で、以来、龍安寺は寺運隆盛に向かい、下っては豊臣秀吉や徳川家康が寺領を寄進するなど、一時は塔頭(たっちゅう)も20を超える大寺になる。しかし、龍安寺は寛政9年(1797)再び火災に見舞われ、方丈、開山堂など多く失う。
 火災後まもなく塔頭・西源院(せいげんにん)の本堂を移築して方丈とするものの、久しくその方丈と庫裏のみの姿が続いた。現在ある龍安堂の開山堂などの建物は昭和52年の再建になるものである。世界文化遺産登録

 京都めぐり、方丈を旅行。

龍安堂の方丈(本堂)は、塔頭西源院の、本堂を、寛政の火災後に移築したもの(じゅうぶん)。大規模な禅寺方丈の典型として貴重な遺構である。
方丈
方丈
方丈庭園
方丈庭園

 京都めぐり、方丈庭園を旅行。

龍安寺の方丈庭園は特別名勝。南庭が、寺の代名詞ともなっている石庭。柿葺(こけらぶき)の油土塀に囲まれた、白い砂利と石だけの庭で、現在は石を囲むようにコケが生える。由緒はつまびらかでなく、室町時代の造営で作者は相阿弥(そうあみ)とする説、江戸時代の造営とする説など、さまざまである。

 京都めぐり、虎の子渡しを旅行。

15の石の配列が、虎が子を連れて川を渡るように見えることから、「虎の子渡し」の庭と呼ばれる。また、白砂を大海、石を島、あるいは白雲と秀峰と見ることもできる。
虎の子渡し
知足のつくばい
知足のつくばい

 京都めぐり、
知足のつくばいを旅行。

東庭は、樹木とコケが多く、徳川光圀寄進と伝えられる「知足のつくばい」が有名。このつくばいは銭形で、中央に四角く口が開き四方に文字が刻まれる。4文字にそれぞれ口の字をつけると、すなわち「吾唯足知」(ワレタダシルヲシル)となる。意味は「知足のものは貧しいといえども富めり、不知足のもは富めりといえども貧しい」という、禅の精神をあらわしているという。また、秀吉が賞嘆してまなかったと伝えられる。侘助椿の老樹が景趣を添えている。

 京都めぐり、鏡容池を旅行。

広い龍安寺の寺域の南側部分のほとんどを占める大きな池。徳大寺家山荘時代に作られたもの。かつては水面をオシドリが群れ遊んだといわれ、おしどり池の通称もある。周囲には樹木が生い茂り、池面には京都の衣笠山の姿を映す。
鏡容池
鏡容池(きょうようち)

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