京都旅行寺めぐり |
京都 | |
| 旅行 | ||
| 天龍寺 | ||
| 天龍寺 (地図) 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 |
天龍寺 嵐山 |
京都めぐり、天龍寺を旅行。天龍寺は、正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいきざんてんりゅうしせいぜんじ)と号する。禅宗の名刹。西に亀山を背負い、南には大堰(おおい)川をはさんで嵐山を望む境内には、夢窓疎石(むそうそせき)作になる回遊式庭園、曹源池(そうげんち)庭園があり、際立った美しさを見せている。嵯峨野南部のこのあたりはには、古くは嵯峨天皇の離宮があり、下って、後嵯峨天皇もやはり離宮を営んだ。また、一時期は、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)の発願で開かれた檀林寺が所在したとも伝えられる。そんな由緒の土地に後醍醐天皇の霊を慰める禅寺を造営したのが、室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)である。天龍寺の建立が決定されたのは暦応2年(延元4年、1339)である。天皇没後わずか2ヵ月というスピードであった。 |
京都めぐり、足利尊氏を旅行。尊氏は、日本史に登場する英雄達のなかにあって、さほど人気は高くない。その理由は、吉野に遷辛し、失意のうちに世を去った後醍醐天皇の悲劇性ばかりが強調されて伝えられたきたことにある。その悲劇の原因を作った尊氏は逆賊としてみなされ、功積は忘れがちである。建武中興(けんむちゅこう)は、さまざまな階級の人たちの北条氏独裁への不満に支えられてなったものである。にもかかわらず、中興政権の施策は皇室、公家、寺社を優遇する反動的なものであった。朝令暮改もはなはだしい、気ままな政治が行われたものという。実質的にはもっとも中興に貢献したはずの武家勢力の不満が噴出するのは当然で、非は後醍醐天皇の側にあり、尊氏が反旗を翻すのは必然であったともいえる。 しかも、尊氏については、仏教を篤信して度量広く、無欲であったとも伝えられている。もしそれが実像であるなら、冷酷非道の逆賊どころではなく、尊氏こそ、冷静で情もわきまえた、真の改革者であったのかもしれない。そんな尊氏に、政敵であった後醍醐天皇の供養をすすめたのが、夢窓疎石である。 造園のことで知られる夢窓疎石は、多くの権力者たちの帰依を受けたが、夢窓から積極的に権力者に近づいたわけではない。むしろ権力者を遠ざけようとしていたが、そのような淡白さゆえに南朝、北朝両方から厚く遇された。特に足利尊氏に対しては、夢窓自身も好感を持ち、「末代にありがたき将軍なり」と語っていたという。尊氏は夢窓の指導で全国に安国寺を定めているが、これも敵・味方の隔てなくすべての戦没者と弔うものであった。そうした経緯を経て建立された天龍寺だが、財源不足などの困難もあり、造営費を補うために天龍寺舟が大陸に派遣されている。 京都を代表する、京都五山の筆頭に列された天龍寺は、尊氏の外護につくすべしとの遺命もあって、以後もつねに室町幕府の強力な保護を受けて禅門に君臨し、数多くの塔頭子院を擁するとともに、寺域も33万平方メートルに及んだという。しかし、応仁の乱や幕末の動乱の兵火を受けるなど、しばしば大火に見舞われ、いまや、古建築といえるものはほとんどない。江戸期の建物でさえ、わずかに勅使門、中門などを残すのみである。世界文化遺産登録。 |
京都めぐり、方丈庭園を旅行。天龍寺の方丈庭園(特別名勝)。曹源池(そうげんち)庭園の名がある。伝統的な王朝風と禅風とをたくみに融合させた、独特の美しさの池泉回遊式庭園。中心をなす曹源池の前面には洲浜(すはま)形の汀(みぎわ)や島を配し、砂の白や松の緑をきわだたせて大和絵のような味を出す一方、池奥の山際には渓谷や滝をあらわす石組みを設け、山水画を思わせ景趣をつくりだしている。夢窓疎石作庭。借景として、嵐山、亀山をたくみに取り入れている。回遊式庭園としては最古のものという。なお、曹源池は、後嵯峨天皇の亀山殿の苑地を利用したものともいわれている。 |
曹源池庭園 庭園 |
雲竜図 |
京都めぐり、法堂を旅行。天龍寺の法堂(はっとう)は、昔の座禅堂を法堂にあてたもの。天井いっぱいに描かれた雲龍図は、明治の巨匠、鈴木松年の作。これを描く際に用いた日本最大の硯が庭園にある。 |
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