京都旅行寺めぐり |
京都 | |
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| 知恩院 | ||
| 知恩院 (地図) 京都市東山区林下町400 |
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知恩院は法然上人ゆかりの寺であり、浄土宗の総本山でもある。京都、円山公園の北部に広大な敷地を占め日本最大の三門に象徴されるように、堂字もことごとくスケールが大きい。父の遺言により少年時代より仏門に入った法然は、15歳で延暦寺に入る。しかし貴族のための宗教と化していた当時の仏教に疑問を抱き、やがて南無阿弥陀仏の称名念仏こそ往生の道であると確信するにいたる。そして比叡山を下り、しばらくして吉水の禅房に移った。これは現在の知恩院の御影堂(みえいどう)付近にあたる。 |
| 法然の教えは乱世に苦しむ人々の心をとらえ、関白九条兼実(くじょうかねざね)までが熱烈な信者となる。しかし仏教界はその発展ぶりを危険視し、念仏宗を禁止するように朝廷に働きかけた。承元元年(1207)法然は弟子の不祥事の責任をとる形で四国に流され、4年後帰京。旧房は荒廃していたため大谷の禅房に住み、建暦2年(1212)80歳で没する。門弟達は房の傍らに廟堂を築いたが法然17回忌の前年、延暦寺の僧徒が墓を荒らそうと計画する。これを知った信者たちは遺骸を西山粟生野(あわうの)に移して荼毘(だび)に付した。文暦元年(1234)法然の弟子の高弟源智(げんち)は大谷にもどり、墓所を修理して遺骨を納め、周囲に堂舎をたて、法然を開山として知恩院教大谷寺と号する。以後、応仁・文明の兵火などで幾度も被災したが、時代下って、天下をとった徳川家康が永代菩提所と定めてからは、幕府の庇護を受けて寺域・伽藍を拡張。寛永10年(1633)火災にあうが、家光は即刻、復興に着手した。知恩院の現在の建物の多くはこのとき再建されたものである。なお慶長12年(1607)には、家康のすすめで後陽成天皇(ごようせい)の第8子良純法親王が入寺、以来、門跡制度の廃止される明治維新まで、宮門跡に位置づけされていた。 |
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ところで、知恩院は、二条城と呼応して徳川幕府が御所に睨みをきかせるための隠し城であった、とする説がある。たしかにはるか京都の西山まで見渡せる立地条件は絶好であるし、敷地は建物も城にふさわしい大きさである。鴬張り廊下も忍者対策と考えれば不思議ではない。 |
![]() 三門 |
京都めぐり、三門を旅行。元和5年(1619)徳川秀忠の建立。(重文)日本の木造桜門中最大の規模を誇り、知恩院の三門は、南禅寺、東福寺とともに「三大三門」と呼ばれる。 |
京都めぐり、大鐘楼を旅行。知恩院の大鐘楼は、日本最大の鐘として有名。大晦日には17人がかりでつく除夜の鐘が京都の町に響く。 |
| 寛永16年(1639)徳川家光の再建。間口45メートル、奥行35メートルの中心仏堂。法然上人の木造を安置する。外陣が広く、畳敷きであるが、これは仏堂が仏のためだけでなく、参詣する衆生のためのものとなったことを示しており、浄土宗や浄土真宗の寺の特徴でもある。東寄りの軒裏にある「左甚五郎忘れ傘」、北側から伸びる約550メートルの廊下の鶯張りは、知恩院7不思議にあげられている。 |
京都めぐり、御影堂を旅行。![]() 知恩院の御影堂 |
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![]() 御廟所(ごびょうしょ) |
京都めぐり、御廟所を旅行。御廟所(勢至堂・せいしどう)は、現存諸堂中もっとも古い室町後期の建物(重文)。徳川幕府による知恩院拡張以前の本堂で、法然の幼名、勢至丸ゆかりの勢至菩薩をまつる。 |
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江戸初期の代表的方丈建築(重文)。襖絵は狩野一派の手による。拝観できるは大方丈の一部のみ。両方丈に面する方丈庭園は京都市指定名勝。 |
![]() 方丈庭園 |
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